窓からさしこむ光に、目を細める。布越しに見える空は高く、日が昇り切っていることを柔らかに伝えてくれる。青年は数度寝返りを打ち、意識を覚醒させようとする。じわりと浮かび上がってくるのは、身体に張り付く眠気と倦怠感。不快感を拭おうとした手は、汗でべたつく首元へ吸い寄せられる。魘されていた夜など知らぬ太陽は、じりじりと青年の手を焼きつける。
(昨日は特別暑かったんだろうな)
ゆっくりと起き上がって少しだけ考え事をし、彼はようやく動き出した。布団から出、顔を洗い、空腹を訴える体に冷たい水を流し込む。床に広げていた寝具を畳んで戸棚にしまい、寝台の上で丸くなる少女を一瞥する。光に透けた長い髪が柔らかに赤い光を持っている。
しばらく起きそうにないことを察し、彼が速足で向かった先は自室に隣接する厩だった。
「ごめんごめん、遅くなった」
顔を出して待っていた白い馬に彼は声をかけた。謝罪を聞いているのかいないのか、彼女は少々耳を後ろに絞りながら鼻先を突き出してくる。それを優しく押しやって、青草を桶に詰めた。
「分かったから、待って」
青草にがっつき始めた馬の横をすり抜け、部屋の中の清掃を開始する。彼女は綺麗好きな方だ。清掃はすぐに終わる。食事が終われば、今度は彼女を引いて外へ出る。すでに中天へ上った日差しは、痛いほどに感じられた。夏の虫が温い風に負けじと鳴き立てる。
遠くを見てみれば、陽炎が色めき立っていた。それでも木陰は幾分か涼しい。青年は風の流れる位置へ移動して、大きなブラシを手に取った。短い夏毛はブラシの通りもよい。艶を増す白い馬体に、改めて感心してしまう。かんじきのごとき立派な後ろ足も、太く力強い尾も、そして大きな垂れ耳も、短く胸元に添えられた前脚もくまなく梳いていく。
「なんだ、今日は遅かったじゃないか」
もう少し、とブラシを持ち直したタイミングで背後から声がかかる。
「オージさん」
ガラガラとした特徴的な声に、彼は顔を上げる。
「タイハクのところの馬は相変わらず調子がよさそうだな。ここまでのはそうそういないぞ?」
いつもの誉め言葉を口にし、男は伸びかかった髭を摘まんだ。彼は右足を引きずりながら傍へやってきて、アバニを見上げる。
「俺はなにもしてないんですけどね。アバニは自分で体づくりをするので」
「そうは言っても、なぁ?」
いつも通りのコメントにタイハクは笑って返す。事実秘訣など一つもない。手塩にかけて育てているだけだが、男の目にはそう見えないらしい。
「今日はなんだか遅かったな。夜更かしでも?」
「いえ、夢見が悪くて。昨日の夜は特に蒸し暑かったですし」
「そうだなァ……俺が子供のときはこんな暑くなかった気もするんだが」
「アバニが夏負けしないようにしないといけないですし……少し山に移動しないとですかね」
「それは困る。ま、馬のためならしょうがねえか」
「すぐには移動しませんよ。それで、今日の荷物はどこにあるんです?」
「あぁ、そうだ。今日もよろしくな」
二人と一頭はオージの家に向かって歩き出す。毎日の仕事である作物の手入れ、そして雑務が少々。男と共に二人でせっせと仕事をこなしていけば、あっという間に時間は過ぎていく。昼過ぎからは倉庫への商品の運搬をしなければならない。倉庫に置かれた荷物の山を見て、タイハクは翡翠色の目を丸くする。
「今回は少し多いとは思うんだが……」
馬具を手に取り、それを装着してやりながら彼は首を傾げた。
「本当ですね、どうしてこんなに?」
「新年祭が近いだろう。商店が休みになるから、先んじて用意しておいたんだよ。まぁ、おまけの分が結構あるんだが……」
オージは荷を一瞥して、タイハクへ荷の一覧を手渡す。彼はすぐさま荷を開け、中身を改め始めた。それを横目にオージはのんびりとあくびを噛み殺す。少しして、タイハクが確認を終えて顔を上げた。
「……この量でもアバニなら大丈夫です」
「そうなのか? この子女の子だろう」
「そのはずなんですがね」
タイハクはどこか誇らしげに眉を下げて笑い、荷を括るための縄を取りに行った。隣ではアバニがご機嫌そうに頭を振っている。よく手入れされた白色の毛並みが日の光に反射し、星のように輝いている。改めて男は感心した。
大きな耳と瞳を持つこの種族は、砂地の精霊とも呼ばれる。非常に繊細で臆病な性格をしており、群れで生活をするためか一頭でいることを嫌う。大きく広い後肢で二足歩行を得意とし、繁殖期には砂地に数百頭が集うという。逆に前脚は短く、物を掴むことさえできないほどに退化している。詳しい者によれば、元々は四足歩行だったらしい。
男の熱い視線に気づいたのだろう。アバニは首振りを止めて、すっと目を細めて見つめ返してきた。
「おいおい、違うぞ。オレはちゃんと報酬は払ってるんだ。無茶もさせてないって」
どこか責めるような視線に、人知れず弁明をする。言葉は通じないはずだが、こういった生き物は怖いほどに人を見ていることを彼は知っていた。二度も痛い目を見るつもりはない。何度も首を横に振って弁明をするが、彼女はどうにも納得していないようだった。そんな一人と一頭のやり取りを見、タイハクは苦笑する。
「アバニ、俺たちは居候なんだから」
彼のなだめるような声にも、不満げな顔を見せたまま白馬は首を上下に振る。軽く地団太を踏んでいるのを見て、オージも困ったように笑うしかなかった。
「まぁ、こいつからしたら、俺は大事な群れの仲間をこき使ってる悪いヤツにしかならねぇよな」
「そんなことないと思いますけどね……」
「さあ、どうだか……この子は賢いからなあ。大変だろ、月下草食べないんだし」
「まぁ…………」
少しだけ遠い目をしてタイハクは緩く頷いた。再度向けられたアバニの視線に首を振り、ところで、とオージは話題を切り替える。
「あの子はどうだ? あれからなにか思い出したか?」
「いえ、特には……怪我はよくなったんですけど」
──ひと月のこと、ちょうど日が沈み始めた時間帯。タイハクが所用があって近所の山裾へ入ったときのことだった。いつも人っ子一人いるはずのない獣道で、彼女は地面に倒れ伏していた。目立った怪我などはなかったが、声をかけても一向に目を覚まさなかった。少し迷いつつもタイハクは少女を自宅──間借りしている倉庫と厩──に連れ帰り、オージ夫婦に声をかけて手当を手伝ってもらったのだ。結局彼女が目を覚ましたのはそれから三日後だった。
話を聞いて分かったのは、オウという変わった名前と、自分に関する記憶をほぼ失っているということだけだった。地図を見せても、文字が読めないから元居た場所もよく分からないと話すばかり。それから昨日まで安静にしてもらうため、オージの家で面倒を見てもらっていた。
「まぁ、なにがあったのかは知らんが……ショックで記憶を失っている、とかじゃないといいな」
「そうですね。ただちょっと、状況的にも違和感がありますけど」
「まぁな。お前と同じくらいだろうし……つっても俺からすればお前も大概だけどな」
オージの視線からタイハクは気まずそうに目を逸らす。
「お前みたいに、戦争関連でひと悶着あった身の上かもしれん。なぁ、せっかくだから連れて下りてやってくれないか」
「え? 今日ですか?」
「ああ、色々見て回ったらなにか思い出すかもしれないしな。怪我は治り切ってるし、少しは身体を動かした方がいいだろ。それに……」
少し声を潜めてオージは続ける。
「探している方がいるかもしれん。掲示板とかついでに見てきてくれ」
彼の進言は最もだ。馬に少しだけ待つように伝え、タイハクは一度己の家に戻る。
「オウ、ちょっといいか」
名を呼んで声を掛ければ元気な返事が聞こえてくる。例の少女はひょっこりと戸から顔を出した。長い前髪の隙間から覗く金の瞳と目が合う。長い髪は一本の三つ編みでまとめられていた。
「なにか御用?」
「これから仕事で町へ降りるんだけど……よかったら」
オウは二、三度瞬きを繰り返した後に頬を緩ませた。
「え、いいの? 仕事の邪魔にならない?」
「荷物運ぶだけだから、仕事はすぐに終わるよ。今日はそれだけだから俺は気にしない」
その言葉を聞いたオウはこくこくと頷いて戸締りを始めた。さっさと支度を済ませた二人がアバニの元へ戻ると、オージと立ち話をしている女性がいた。彼女は二人に気が付くと丸い頬に柔らかな笑みを浮かべる。
「あら、二人とも元気そうね。オウちゃんも具合がよさそうでよかったわ」
「えと、はい。おかげさまで」
「それじゃオージさん、ズチさん行ってきます」
「あいよ、よろしくなー」
「あ、そうだ。二人とも、今日は食べてくのよね?」
「えっ……あー、そうですね」
昨夜の言葉を思い出しつつ、タイハクは控えめに返事をする。
満足げに頷く女性──ズチの表情を見て少しだけ息を緩めた。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
夫婦は揃って玄関先に立つ。支度を終えて顔を出したオウを手招きして、外で待たせていたアバニに声をかけた。風を浴びて足を崩して座っていた彼女は、すっくと立ちあがって一声鳴いて応える。その手で手綱を引き、タイハクは少女と馬を連れて麓へ続く道へ踏み出した。
だんだんと減っていく木々の冠を見やりながら、一行はゆっくりと山道を降りていく。町が嫌いなわけではないが、彼にとって町は住む場所ではなかった。しかし生活のために、こうして一時的に降りることは好んでいる。今日も同じように歩調を弾ませながらいつもの道を行く。
久々に降りてきた町は、相変わらず賑やかだった。