月光が陰る。止まっていた風が流れ始める。
「っ!?」
刹那、がばりとタイハクが手を上げた。咄嗟に身をかがめるオウ諸共、二人は地を転がる。光の矢が複数頭上を掠めていった。目を白黒とさせつつも、オウは辺りを見回す。襲撃者の姿はどこにも見当たらない。それはタイハクも同じらしい。二人は地に伏せたままじっと息を潜めた。
「さっすがー。反逆者サマは逃げるのが上手いな」
かわいらしい声と共に華奢な少女が姿を現す。タイハクは彼女のことを知っているのか、一瞬だけ顔を歪めたように見えた。初めて見る反応にオウは思わず息を飲む。彼女は量感のある黒髪を二つに括りにし、肩に流している。暗闇でも僅かな光を受ける瞳は、赤く妖しく輝いていた。風貌からして無法者の類だろうか、そう思えたのはこの一瞬だけだった。凶悪な笑みを彼女の左腕には満月の意匠が施された腕章があったからだ。
オウは恐る恐るタイハクの方を見るが、彼の表情はいつもと大差がないように見えた。ただどこか冷たく乾き切っているような──言い難い違和感は実感となって現れる。
襲撃者はどこからともなく小型ナイフのようなものを、複数取り出して構えた。それを合図にタイハクも応戦の姿勢を取る。
「アバニのところかおじさんのところへ!」
鋭い声を背に受けながら、オウは一心不乱に駆け出した。その隙を狙って投擲されたものを横に躱す。背後にあった木に当たったそれらは炸裂して風を起こした。
「っ、面倒な!」
大剣を手に突っ込んできた襲撃者をいなし、タイハクは暗い山道へ駆け出す。攻勢に出ない彼を煩わしく思ったのか、炸裂弾が帳のごとく横へ広く展開された。背後を一瞥した翡翠の瞳は鋭く細められる。
初弾は横に跳んで、次弾は木の後ろに回り込み、急坂へ飛び込んで躱す躱す躱す。最小限の動きは爆風範囲を掠めていくだけで、ダメージにはならない。
「アイツ、ラックと反射神経だけで全回避しやがった!」
最後、至近距離に飛び込んだ唯一の炸裂弾は、不発のまま地を跳ねた。
幸い月は雲に隠れたままだった。草むらを突っ切ってオウは道へ飛び出す。
(あれ、これ……なんだろ……)
強烈な違和感と既視感を覚えながらオウは母屋へ飛び込む。戸を開いて真っ先に視界へ飛び込んできたのは、ズチへ手を上げようとする覆面の男たちだった。咄嗟に近くにあった椅子を掴んで殴りかかる。イヤな手ごたえを味わう余裕もなく、オウはズチの元へ飛び込む。
「おばさん、大丈──」
「後ろ!」
反撃がオウの側頭部を捉える。視界で星が散って、鋭い痛みが右から左へ突き抜けた。そのままぐらりと意識が揺れ落ちそうになる。ぐらつく視界を抑えようと、腕を上げようとするが上手くいかない。床に伏せる寸前で受け止められたのか、体温が左頬に当たる。柔らかな感触に痛みが一瞬だけ遠のいた。
落ちてしまった視界をそのままに、耳に流れ込んでくる音に意識が引っかかる。複数の足音と共に、聞こえる、声。薄く開けた瞼の間に青年の背と小柄な少女の姿が見える。
「ああ、心配で戻ってきたんだ。バカだな」
青年は無言を貫く。その顔色はこちらからでは伺うことができない。己の頬に触れる手が、小さく震えているのが伝わってくる。
「お二人さん、ソイツは女神殺し未遂の大罪人なんだよ。まぁ、失敗して仲間を全員見捨ててこんなところにいるみたいだけど?」
頭上で二人が息を飲んだのが分かった。どうして、という声に背を向ける彼は応えない。こちらには一瞥もくれぬまま。長く息を吐いた音だけ耳に届く。
「この人たちは関係ない」
「だからなに?」
否、と赤い瞳は話を終えようとする。視界がだんだんと広がっていくのが分かった。小さく指先が動いた、その時。
「違う」
突如床に放り出されたオウは思わず呻く。頭を抱えながら、ようやっと身を起こして渦中へ目を向ける。オウを笹てくれていたはずのズチは、タイハクの腕の中にいた。どこからかナイフを取り出したのか、その切っ先を彼女の首筋に向けている。一切の震えも、迷いも見られない翡翠の瞳に思わず奥歯をかみしめる。小さく震える薄い肩が青年の容赦のなさを物語っていた。
「俺が適当を言って匿わせていただけだ。退け、望月は民に手を出せないんだろ」
襲撃者の後ろに控えていた覆面たちが肩を揺らす。ナイフは構えたまま、静かに相手の反応を待つ。それでも相手は一歩も退く様子を見せない。
「そんな三文芝居が通じると──」
「最初からこのつもりだ。早く決めろ」
小さく震える肩を乱暴に掴み直して、もう一度タイハクは退くように促した。低い声に気圧されたのか、覆面は大剣の少女に視線で指示を乞う。
「フーン、じゃいいよ。今回だけは見逃してあげる。二度目はないから」
さっさと大剣をしまい少女は踵を返した。強行突破を期待していたのか覆面は呆気にとられつつもその後を追っていく。足音も遠くなり、誰も付近にいなくなったことを確信すると、ようやくタイハクはズチから手を離した。咄嗟に手を伸ばしたオージが、床に倒れこみそうになった体を支える。未だ痛む側頭を抑え、オウもそちらを見る。
「本当にすみません。ありがとうございました」
それだけを言い残して青年は踵を返す。夫婦はなにか言いたげに口を開いて、そのままなにも言えずに背を見送るだけだった。
「アバニ、行くぞ」
ただならぬタイハクの雰囲気を感じ取ったのか、アバニは素直に立ち上がった。軽く荷をまとめ、さっさと彼は母屋を離れる。薄雲から降り立つ月の光は頼りなく、暗い暗い、行先を照らし出してくれていた。